ローマ書1章に、神を知ろうとしたがらない人間の心理が、良く書かれています。

 -神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン(ローマ1:20-25)。

 先日息子と動物園に行ってきました。3歳わんぱくざかりの一人息子とあって、休日にいかに彼の体力を有効に消耗させられるかが、課題となっています。動物たちと人間の違うところ、動物に口があれば、やはり人間に問いただしたいところは、ここだと思います。「造り主の存在は自明の真理なのに、どうして造り主を認めようとしないのか、地球の生態系を管理する者として創造された人間よ、どうしてそんなに自分勝手に良くない思いに引き渡されて生きるのか?」クリクリとした目の動物たちに、話す口があったら、そんなことを問い詰められそうな気がします。。

 ただ、日本人の中にはけっこう、神様という目に見えない存在を信じていて、常に「感謝心」を大切にして生きる、という、そういう方々も、クリスチャンではなくても多いと感じています。

 私たちの肉体や魂、霊のすべてを創造された神様にとっては、「どうしてあなたの造り主を知ろうとしたがらないのか、どうして感謝のひとつも出てこないのか?」というのは、とても心が痛くなる悲しいことだと思います。そして感謝のひとつも出てこないどころか、神様のほうを見向こうともせず、まったく知らぬ存ぜぬというそぶりで自分勝手に、あるいは神様の御栄えのためではなく、自分の栄えのために集中して生きようとする。。

 私自身も、以前、人に感謝をされても良いことをしたはずなのに、感謝のことばのひとつも言っていただけず、あるいは私の存在を知っているにもかかわらず、まったく知らない、感知しないとばかりに振舞われた経験があります。もちろん、私は別に神様ではありませんから、別に構わないのですが、それでも、私の心にぽっかりと穴が開いたような、とてつもない空しさを感じたことがありました。ただ、それからしばらくした後、震災ボランティアで行方不明の2歳児を救出された尾畠春夫さんという方が、「かけた情けは水に流せ、受けた恩は石に刻め」という言葉を大切にされているということを知って、深く驚嘆したものでした。このようなことが、自然にできる人というのは、クリスチャンではなくても、「神」なる存在を心のどこかしらに信じている方だと思います。見える世界が見える世界のみで、完結しているのではない、見えない世界があって見える世界がある、という認識があるからこそ、そのような生き方ができるといえるのではないでしょうか。

 日本はキリスト教宣教が難しい国であるとよく言われますが、もともと「神様」を信じている日本人の心の中に、もしかするとクリスチャンよりもさらに純粋に「見えない世界におられる神様」を深く信じていて、その存在に対する「感謝心」を常に携え、クリスチャンよりもさらに謙遜に世の中に仕えようとされておられる方々が存在するというようなことは、宣教の前によく捉えておくべきことだと思います。

 私の母も未信者ですが、見てみれば、神様を信じているし、愛ある振る舞いにおいては、クリスチャンである私がとてもかなわないほど実践的な愛に溢れていたりもするので、かえって私が彼女に「宣教」するのは難しいというところがあります。。

 日本人の歴史と信仰の中に自然と流れてきたそのような愛あるあり方や見えない神様を信じる生き方、そういった道徳性が、プラグマティズムに染まった現代教育では、根こそぎそがれてしまって、そういった副作用が、いろいろと現代を生きる人たちの精神面に影響して、もしかすると若年性がんの原因にもなっているのかもしれない、と思う今日この頃です。